岩田榮吉の作品
作品点描
失われた時を求めて(その4 《紫の瞑想》とは)
岩田の《紫の瞑想》(1971年・画集No.43)は、
《アトリエ(自画像)》(1970年)より後、
《失はれし時を求めて》(1973年・画集No.53)より前の作品です。《失はれし時を求めて》と同じ人形をモチーフとして、《失はれし時を求めて》より大きなサイズで描かれています。また、《紫の瞑想》とほぼ同一の構成で、4分の1ほどの大きさの作品に、《レースの人形》(1977年・画集No.82)があります。同じ人形をモチーフにしたこれら3作品は何らか関係があるのでしょうか。
《紫の瞑想》では、パラソルを手にした人形が、柔らかく射し込む外光を受けて、壁際に腰かけ瞑想しています。配されたオブジェは、燭台と火の消えたロウソク、そして振り香炉だけで、シンプルな構成ですが、その含意はなかなかに濃厚です。この人形はいま帰ってきたところでしょうか、それともこれから出かけるところでしょうか、手にしたパラソルがそうした日常を表わしています。燭台と火の消えたロウソクは「時」を表わしますが、記憶することになる体験をした時と、その記憶が呼び覚まされた時という二つの「時」が重ねられています。そして使われなくなった振り香炉は、時代とともに薄れる信仰心、ひいてはそれに代わる心のよりどころが求められていることを暗示しています。
それでは「紫の瞑想」というタイトルは何を示唆するのでしょうか。紫はダブルイメージの色、「神秘」あるいは「高貴」というポジティブイメージの裏に、「日常」あるいは「低俗」というネガティブイメージが潜んでいるとすれば、そうした眼前の世界を離れ、心を集中させて思いを巡らせることこそ、この作品の描きだすところなのでしょう。つまり、この作品に「失われた時を求めて」というタイトルがついていても、おかしくはないのです。あえて言えば、《紫の瞑想》ではいま求めるべきところが描かれ、《失はれし時を求めて》ではいまいるところが描かれているのでしょう。
《紫の瞑想》 1971年
《レースの人形》 1977年
この作品は《紫の瞑想》の習作として描かれたものに、後年若干手を加えた作品であると思われます。