本文へスキップ
岩田榮吉の世界ロゴ

岩田榮吉の作品

 作品点描
  《レンブラント風自画像》


《レンブラント風自画像》は岩田が未だ芸大に入学する前、ようやく20歳を過ぎた頃の作品です。褐色基調の画面に、やや半身の胸像、穏やかながら芯の強そうな引き締まった表情の目がまっすぐこちらを見ています。ぎりぎりに抑えた色彩、明暗の対比の中に浮かび上がる個性的な表情、比較的あっさり描かれた黒っぽい服装、暗く沈む背景、これらはまさにレンブラント絵画に通じるものです。

レンブラント絵画は、明治・大正の先駆的洋画家にとって、受け止め方の差こそあれ洋画中の洋画だったと言えるでしょう。原撫松(はら・ぶしょう 1866‐1912)や黒田清輝(1866‐1924)は滞欧中多数の模写を試みました。また、中村彜(なかむら・つね 1887‐1924)は輸入の画集を徹底的に研究した様子です。さらに、雑誌『白樺』(1910‐1923)、平凡社『世界美術全集』(1930以降)などにより一般にも広く紹介されたのです。

その中で、後世への伝わり方に大きな影響をもったのは、黒田のレンブラント観です。周知のとおり、帰国後の黒田は東京美術学校西洋画科の創設以来、制作と教育の両面で日本の洋画界を牽引していく存在となりますが、その基本指針は「レンブラントではなく、光琳になろうではないか!」だったのです。洋画中の洋画であるレンブラントをそのまま日本に持ち込んでも馴染むはずがない、日本人なりの受け止め方があるはずだという訳です。


《レンブラント風自画像》 1950‐51年
《レンブラント風自画像》 1950‐51年 東京藝術大学蔵


実際、帰国後の黒田の作品にレンブラントの影はほとんど認められません。しかし黒田の真意は誤解されたかに見えます。その後の日本洋画は、あるいはヨーロッパ絵画の最先端を追い、あるいは日本の伝統的絵画を油彩で描くことを専らとして、レンブラントは等閑視されたのです。その点岩田は、その後の足跡を併せ見れば、洋画の根源的発想を直観し、さらに追求して黒田の指針を貫いたとも言えるのではないでしょうか。この《レンブラント風自画像》はその出発点となった1枚なのです。


会場風景

横浜本牧絵画館の展覧会「岩田榮吉と恩師・畏友」(2022年10月~2023年1月)の会場風景。



ナビゲーション

バナースペース