岩田榮吉の作品
作品点描
《人形(トロンプルイユ)》~岩田と「シュルレアリスム」
少々意外かもしれませんが、岩田(の作品)には「シュルレアリスムの気配」を感じさせることがあるようです。例えば、岩田の1970年の個展図録中でレイモン・シャルメは「(岩田の作品は)思いがけなくシュルレアリスムに近い響きをもつこともある」と述べています。シャルメはシュルレアリスム美術に通じた論説で知られるフランスの美術評論家ですが、岩田の作品をも高く評価しています。
1970年頃には、「近い響き」とだけ言えばわかる濃密な気配がシュルレアリスム美術をとりまいていたのでしょうか。岩田自身は所謂「シュルレアリスム」について、好感を持っていなかったはずです。この1970年の個展に至るまで、岩田の制作環境は、シュルレアリスム系「アンフォルメル」の逆風にさらされ続けたのですから。しかしその一方で岩田はルドンやダリを評価してもいます。「シュルレアリスム」を一括りにはできないのです。
岩田作品に「シュルレアリスムに近い響き」を感じさせるものがあるとすれば、その最たるものはトロンプルイユ作品でしょう。ただしその説明は簡単ではありません。「シュルレアリスム」も「トロンプルイユ」も様々に誤解されているからです。先ずは「シュルレアリスム絵画とは現実にはない奇抜さを競うものではない」こと、「トロンプルイユとは目をだますことだけを目的とした絵画ではない」ことを特記しておきましょう。
さて、「トロンプルイユ」は一般に「だまし絵」と和訳されますが、これが誤解の元なのです。「だまし絵」の中には、写実的でなく、錯覚を誘引する表現の追求から生まれた絵画が含まれますがこれらはトロンプルイユではありません。また、実物と見まがうほど写実的に描かれた絵画がすべてトロンプルイユという訳でもありません。トロンプルイユは、細密に描かれた空間と見る人のいる空間があたかもつながっているかのように描かれます。
そして「シュルレアリスム」。こちらの一般的和訳は「超現実主義」ですが、「超」が問題です。例えば「超人」とは「並外れた資質能力をもつ人」のことであって、人間でないわけではありません。同様に「超現実」は「通常われわれが現実と思い込んでいる以上の要素を包摂した現実」なのであって、現実とかけ離れたものではありません。つまり、「超現実」も「トロンプルイユ」もわれわれがいる「現実の空間」とつながっているのです。
岩田の1970年個展出品作《人形(トロンプルイユ)》(画集 No.32)を見てみましょう。小さなキャビネットの中に、地球儀ほかのオブジェに囲まれた人形がいます。いま、目の前で、何かのドラマが始まりそうですが、主役の人形は見ている私自身か、それともずっと以前子供の頃の私でしょうか。ここには現実にあり得ないものは描かれていません。あるはずのない「ものとものの関係」もありません。それでいて、二人の自分が現実を演じています。
岩田は、まっさらなキャンバスに向かって直ちに描き始めるタイプの画家ではありません。発想の緊張度を高め、構想を練り、デッサンを重ね、エスキースをつくり、はじめて本作に取り掛かります。とはいえ、制作の途上で「絵が独り歩きを始める」こともあります。積み重ね思い描いてきたとおりに画面を制御できなくなるのです。しかしこれはシュルレアリスムの所謂「オートマティック」な状態とは違います。
また、岩田は、実際にキャビネット状の箱を自作し、その中に、蒐集した人形や品々から画題に見合ったものを選び出して適切な関係を示すよう配置し、光線との角度を考慮してアトリエ内に位置決めし、写生します。壊れかけていた地球儀が画面では直っていたり、古びていた人形の衣装が新しくなったりすることはあっても、基本は見たままの細密描写です。シュルレアリスムの所謂「デペイズマン」の類の表現ではありません。
つまり、岩田の作品にシュルレアリスムの気配を感じとることは、岩田本人にとっても鑑賞者の多くにとっても「思いがけない」ことであるといえるでしょう。しかし、岩田自身の好き嫌いを越えて、作品のテーマと「現実の空間とのつながり」にシュルレアリスムの気配を感じることは不思議なこととは言えず、むしろ当然のことかもしれません。シュルレアリスムが、様式ではなく探究の方法であるとするならば。
《人形(トロンプルイユ)》 1970年
(1970年の個展出品作、画集 No.32)