人物点描
パリ・1968年頃の展覧会事情
岩田がパリで本格的に制作を始めた1960年代、画家はどうやって世に出て行ったのでしょうか。インターネットも未だなく、精細な映像メディアも未発達な時代、「ライブペインティング」のような行き方に馴染めない画家にとって最も一般的な道は、公募展あるいはコンテストに出品して知名度と「ハク」をつけ、個展を開き、画商とのつながりを得て売ってもらうという経路でした。
岩田も渡仏翌年の1958年、パリ在住日本人画家展(パリ、ガリエラ美術館)への風景画2点出品を皮切りに、ナシオナル展、コンパレゾン展、テール・ラティーヌ展、サロン・ドートンヌ、アンデパンダン展などに出品を重ねています。展覧会にはそれぞれ個性があり、出品者についても、一定の要件を満たして会員になれば例年出品できるもの、主催者による「招待」という形の選抜制、誰でも出品できるものなど様々です。
どの展覧会を重視するか。1968年頃の主だった展覧会について、岩田の書簡から窺い知ることのできるところをピックアップしてみましょう。
ナシオナル展については、岩田は既に1962年から会員となり以後例年招待出品しています。
コンパレゾン展については以下の言が見られます。
「パリの数ある展覧会(サロン)のうち最も良いものの一つ。『招待制』なので厳選された作家のみ。傾向ごとに20くらいのグループに分かれ、1グループ1つの部屋が割当てられて10~20人が出品する。自分はレアリズムのグループに6年ほど前から毎年出している。パリで『何々展に出している』といってハバのきくのはここと、サロン・ド・メ(抽象のみ)くらい。」
反対に、
ル・サロン(官展)については、
「大変落ちぶれてしまった。日本人でも最低の絵描きがここでは賞をとっている。かつて一度『佳作』入賞したが、賞をもらうのがあまり不名誉になりそうなので、翌年からやめた。」そして
サロン・ドートンヌについて、
「日本ではこのサロンが大いに話題になるが、消滅1歩手前で、昨年も今年(1968年)も開催されていない。従って自分の出品もなく、会員にもなっていない。」
時代により展覧会にも盛衰があります。特にフランスでは、政府の文化政策が大きな影響力をもち、展覧会組織内の人間関係なども複雑です。そうしたことに関わってばかりもいられないでしょうが、まったく無関心でもいられない心中が推察できます。
ナシオナル展への作品搬入風景(中央が岩田) 1977年5月