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岩田榮吉の人物と経歴

 人物点描
  アトリエ その1



パリ市18区、オルドゥネール通り189番地。岩田は30歳代後半から終生この地のアトリエで起居し、制作しました。この辺りはモンマルトルの丘の北側、サクレ・クール寺院の裏側にあたり、繁華な西南地区の近くながら静かな一帯です。ここにパリ市が1933年に建設した芸術家のためのアトリエ村「モンマルトル・オ・ザルティスト」、そのB棟最上階4階の一画約10坪相当が岩田のアトリエでした。

パリ市南部の14区にある国際大学都市日本館の一室からパリ生活を始めた岩田は、留学修了で日本館を退出した1960年以降、14区の日本館近隣、15区のサン・ランベール通り、13区ポテルヌ・デ・ププリエ近隣…と転居を重ねましたが、1968年にパリ市営の「モンマルトル・オ・ザルティスト」に入居できたのは幸運でした。住居用の部屋と違い、ここはもともとアトリエとして建てられたものですから、高い天井、北向きの光を十分採り入れられる大きな窓を備え、家賃も安く、近隣には日用品を扱う商店も揃っています。ただし、エレベーターがなく、通常の住居用なら6~7階に相当する最上階まで階段で上らなければならないのは大変だったようですが。

「モンマルトル・オ・ザルティスト」には、1933年の新設当初から入居している日本人画家がいました。荻須高徳(1901年~1986年)です。荻須は、パリの都市風景を造形性に富んだ構成で描き、後に大統領となるジャック・シラク(当時パリ市長)から「最もフランス的な日本人」と評されていますが、戦時戦後の9年ほどを除き40年以上を「モンマルトル・オ・ザルティスト」C棟のアトリエで制作しました。終戦後このアトリエに復帰した頃を荻須は次のように書いています。

「…パリのオルドネル通りの昔のアトリエに戻ったのは(1949年)1月のことです。戦争の間もスイスの友人が家賃を払って保管してくれていたのですが、8年前にぼくが南フランスに出発したときとだいたいそのままのアトリエへ引き返せたのは幸運でした。当時はパリに住居を見つけるのは大変むずかしかったのです。家の近所のパン屋、酒屋、靴屋、クリーニング屋のおやじさんもマダムも戦前のまま、ちっとも変わりありません。八年の歳月が流れたのですからみな多少はふけていましたが元気なものです。日本は戦争中は敵国だったわけですが、そんなことは問題としているようすもなく、旧知のぼくをみつけて歓迎してくれました。」

― 荻須高徳『私のパリ、パリの私』東京新聞 1980年5月

(愛知県稲沢市の荻須記念美術館には、そのアトリエがそのままに再現されています。http://www.city.inazawa.aichi.jp/museum/)


Montmartre aux Artistes
1976年ごろの「モンマルトル・オ・ザルティスト」正面入口


岩田のアトリエ(1)
岩田のアトリエ(1) 撮影:南川三治郎


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