岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
《Hommage à Mishima》をめぐって(その1)
岩田が自ら作成し遺した写真撮影外注リスト中に、《Hommage à Mishima》というタイトルの作品が記載されています。1号サイズ油彩の小品で1971年の作となっています。リストには当該作を含むカラー撮影指定17点と他に白黒撮影指定9点、計26点が掲げられ、もっとも最新のものは1974年作、すべてフランス語表記です。誰に撮影を依頼したものか、どういう用途のものだったのかについては記載がなく、不明です。
「Mishima」とはもちろん三島由紀夫のことであり、彼が1970年11月25日に東京の陸上自衛隊市谷駐屯地で自決した事件の後、1971年に描かれたものであることは間違いありません。事件が報じられた時、岩田は第1回個展の後始末などでまだ国内に滞在していたので、詳細な報道に接し、多くの人に衝撃を与えたことも身をもって感じたことでしょう。岩田にとっても三島は「Hommage」を描くほどに影響を受けた存在であったのです。
1925年生まれの三島は岩田より4歳年長ですが、互いに面識は認められません。岩田の手紙などにも直接的影響の痕跡は見つかりません。多才な三島ゆえ、岩田が具体的に何からどのような影響を受けたのか容易に想像もつきません。岩田が三島の死そのものを美化するはずもなく、とすればヒントは冒頭の作品自体のほかにはなく、その肝心の実物は所在不明、せめて画像が残っていればと思いますが、どうしたわけか残されていないのです。
三島芸術を通底する傾向を一括りに要約すれば、「伝統・様式・死生にまつわる美への執着」であり、「人間内面の深淵への洞察と救済」であり、それらを包む「知的なダンディズムとバイセクシュアルな嗜好」といったところでしょうか。ここまで抽象化してしまうと相当に岩田の性向と重なるところはありそうですが、「Hommage」に結びつけるにはもっと具体的なもの、「美術」に関わるものがあったはずです。そしてその端緒はおそらく芸大時代あたりの若い頃にあり、以後ずっと気にかけてきたものではないでしょうか。
東京多磨霊園にある三島(本名:平岡公威)の墓所。
墓誌に戒名「彰武院文鑑公威居士」が刻まれている。