岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
《Hommage à Mishima》をめぐって(その3)
岩田が大きな影響を受け、《Hommage à Mishima》を描くに至る契機を構成したものは何だったのか…三島の評論「ワットオの“シテエルへの船出”」がその端緒の一つである蓋然性は極めて高いのですが、当初からその意味を岩田はくみ取っていたでしょうか。「シテール」はルーブルにありますから、もちろん岩田は実作を見ているはずですが、とくに言及・考察などしていた形跡はありません。
もうひとつ見逃せない三島の文章は、ティツィアーノ《聖愛と俗愛》(ローマ/ボルゲーゼ美術館蔵)についての記事(「希臘・羅馬紀行」芸術新潮1952年7月号)です。名作の評判高いこの作品に対して三島が感嘆しているのは、女神でも花嫁でもなく背景に描きこまれた細部の美しさです。岩田は1958年にこの作品を見ていますが(
人物点描~1958年のイタリア旅行(その1) 参照)、色遣いについて数語の感想を書き残しているだけです。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《聖愛と俗愛》 1514年
油彩/キャンバス 118×279cm ボルゲーゼ美術館(ローマ)
1970年11月25日の自決事件は社会に大きな波紋を投げかけ、新聞・テレビ・週刊誌をはじめあらゆるメディアが連日のように、三島の真意と背景にかかわる論評を伝えました。その中で形成された大方の受け止め方は、目の前にちらつく「豊かさ」のほかには何も見ようとしない戦後社会を、三島はその只中を生きた自身とその肉体を含めて清算した…つまり、のうのうと生きる後ろめたさを強烈に衝かれた思いだったのではないでしょうか。
衝撃とともに、岩田も思い至ったに違いありません。現実を描きながら舞台の上であるかのようなヴァトーの世界に、そしてその背景をつぶさに観察せずにおれない三島の情動に。対して、舞台の上であるかのような世界を描出して現実に迫りたいと願い、折々の状況に身を置く自画像で確認せずにはいられなかった自身に。
失われた《Hommage à Mishima》は、岩田の心の深奥に関わる作であればこそ、岩田自身が破棄したとも考えられます。… 一枚のメモに端を発した《Hommage à Mishima》をめぐるすべては、想像を何層にも積み重ねたにすぎず、原作を見れば一瞬に崩れ去る妄想の類であるかもしれません。