本文へスキップ
岩田榮吉の世界ロゴ

岩田榮吉の人物と経歴

 人物点描
  写真家・奈良原一高との交流


1962年8月、奈良原一高(1931-2020)がパリを訪れます。当時31歳、岩田より2歳年下ですが、既に早稲田の大学院生時代に初個展「人間の土地」で注目されていた気鋭の写真家です。ファッション関係の仕事が終わり次第帰国の予定が、結局奈良原は3年にわたって滞欧、各地を撮影して処女写真集「ヨーロッパ・静止した時間」(1967年 鹿島研究所出版会刊)、そして「スペイン・偉大なる午後」(1969年 求龍堂刊)に結実させました。

後に奈良原はこう書いています(1977年11月19日付公明新聞・『複眼』欄)。「当時、三ヶ月の予定でパリに旅立った僕は初めてみるヨーロッパの美しさに魅せられてつい三年も居ついてしまったのだが、その男に出会ったのもパリに着いて間もない頃だった。手頃なアパルトマンを捜していた僕たちに自分の部屋の隣に住んでいるフランス人老夫婦を紹介して呉れたのだ。」その男とは岩田。14区日本館近くのアパルトマンでのことでした。

そのアパルトマンの窓からはアンリ・ルソーがそこで密林の想像画を描いたというモンスーリ公園の森が見えた。…アンリ・ルソーが税官吏をしていたように彼(岩田)も或会社に勤めながら生計をたて、ひっそりと自分の好きな絵を築き上げていた。」「部屋の片隅である絵の舞台にはきまって人形や宝箱やガラス玉などが置かれてあり、背景の壁には古地図がとめてあった。まるでそれは少年時代の屋根裏部屋の出来事のようだった。

彼が絵を描かないときには、僕たちはパリの長い冬の夜を語り明かした。窓の明るみにふと気がついてガラス戸を押し開いたとき、朝もやの中に浮んだ屋根の上のレモン色の太陽がどんなに哀しげであったことか、その感動は忘れることが出来ない。…その頃の時間のしづくを僕は今でも大切に思っている。」 何を語り合ったかはわかりませんが、奈良原が「三年も居ついてしまった」理由の一端がこの時にあったことは間違いありません。

二人は15年の時を経て、岩田の第2回個展(1977年 東京セントラル絵画館)で再会します。引用した奈良原の文章は、その折のものです。


奈良原一高写真集「ヨーロッパ・静止した時間」
奈良原一高写真集「ヨーロッパ・静止した時間」
(1967年 鹿島研究所出版会刊)



奈良原がパリを訪れた頃14区モンスーリ公園中央にあった建造物。
奈良原がパリを訪れた頃14区モンスーリ公園中央にあった建造物。
1867年パリ万博で展示された「パレ・ド・バルドー」の縮尺レプリカを移築したもの。
1991年に消失。



大手画材店「セヌリエ」のルネ・コティ通り支店。
大手画材店「セヌリエ」のルネ・コティ通り支店。
岩田が当時居住していた14区のアパルトマンから、散歩がてらモンスーリ公園を通り抜けてすぐの立地。



ナビゲーション

バナースペース