岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
日本館時代~転機(その3)
1960年の春を迎えて、岩田は大きな現実問題にも直面していました。すでに1959年の秋には留学先のフランス国立美術学校(エコール・デ・ボザール)スーヴェルビー教室を卒業し、1960年7月の日本館退去期限が迫っていたのです。帰国するか、パリで勉強を続けるか、続けるとしてどのような道をとるべきか。
岩田はやはりパリで勉強を続けることが望みでした。しかし、勉強を続けながら月約45,000フラン(約40,000円、2018年現在の240,000円~320,000円ほどに相当すると思われます)の生活費・経費を自力で稼ぐことはかなり難しいことでした。日本大使館から紹介される通訳・ガイドのアルバイトで1日4,000~5,000フランにはなるものの、順番待ちで、いつでもできるものではありません。また、油絵作品は売るつもりがなく、スケッチは1枚3,000~7,000フランくらいで売れるとも言われるものの、定収となる見込みはありません。
あれこれ考える中で、パリへの執着はますます強くなります。大使館、日系企業のパリ事務所から古画修復の店まで、伝手をたどって職探しをしますが、半日勤務の働き口はなかなか見つかりません。期限の迫る1960年6月、岩田はようやくチャンスに遭遇します。三菱商事からの都合8日間の通訳アルバイトで評価され、ようやく同社に格好の定職を得たのです。報酬は月あたり約35,000フランとアルバイトより割が悪いのですが、お客さんとともに一流レストラン食べ歩きの余禄もあり、切り詰めれば何とかやっていける見通しが開けたのです。「
フランス語をやっておいてよかった」…姉への手紙で岩田は何度も繰り返しています。
「
美校は近代的すぎて(この上さらに)通っても無駄」、「
勿論、長谷川潔先生やモンタネさん(サロンドートンヌの人、寺田春弌先生の友人)などには意見を聞いています」が、「
フランスでもすでに僕のやりたいことを教えてくれる先生などはもう一人も居ません。ルーヴルのオランダ派がたのみです。ただ古画修復の70何才かのおじいさんに昔のテクニックを教わりによく参ります。」 描き続ける方向とそれを支える基盤の両方にめどが立ち、31歳の岩田は張り切っていました。
この頃(1960年1月)、フランスでは、戦後インフレ克服の一環として「旧100フラン=新1フラン」の切り替え(デノミネーション)が実施され、発行された新紙幣には、新フランNFの表示がされています。岩田の書いている金額は、旧フラン表記です。