岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
長尾廣吉の額縁
程度の差こそあれ、画家は自作をどういう額に入れるか(あるいは入れないか)に関心をもつものと思われます。藤田嗣治に《額縁職人》というタイトルの作品があり、まさに職人が工房で額縁を製作している様子が、道具類や製作途上の額縁とともに描かれています。自ら額縁までを製作していた藤田らしい作品ですが、そこまではしなくとも、額縁にこだわりをもつ画家は少なくありません。
岩田は、日本での展覧会への出品にあたり、ほとんどの作品をパリから東京へ額なしの状態で運び、東京で額装を依頼しています。額付きでの搬送はコストがかさむからでもありますが、東京に優秀な額作り職人がいることも大きな理由でした。1977年9月、一時帰国した岩田は、横浜本牧の義兄宅で客を迎えます。客は東京中野の江古田で「長尾商店」を営む長尾廣吉。洋画の額縁職人として知られる存在でした。
明治の初め、洋画が普及し始めると当然額縁の需要も生じ、まずは海外からの輸入品が販売され、やがて国内でも製造されるようになりました。額縁の製造は、木工、彫刻、下地づくり、研磨、着色・箔張りなどの工程ごとに高度な技術を要します。長尾廣吉の祖父にあたる長尾健吉(1860〜1938)は、フランスで西洋家具を学び、画家の山本芳翠(1850〜1906)らの勧めもあって洋画の額縁製造業の草分けとなりました。
長尾廣吉作の額縁はずっしりと重く、経年の緩み歪みなどまったく見られないばかりか、シンプルながら格調の高い直線的構成で、岩田の作品にマッチしています。しかも、居宅などのシックな洋間あるいは美術館の展示に、額縁のもう一つの必須要件である架装場所との相性もいいようです。1977年10月、東京セントラル絵画館(銀座)で開催された岩田の第2回個展図録を見ると、出品リストに「額縁制作…長尾廣吉」と特記されています。
長尾廣吉作の額装により第2回個展に出品した《ピエロ》 1973年