岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
レアリテの画家たちと(その2 ナディーヌ・ル・プランス)
ナディーヌ・ル・プランス(Nadine Le Prince 1945~)がアンリ・カディウに見出されて「パントル・ド・ラ・レアリテ」(
人物点描~<パントル・ド・ラ・レアリテ>アンリ・カディウとの出会い 参照)に参加したのは、岩田と同じ1963年頃、彼女が18歳の時でした。その時すでに「
2年前から作品を発表していた」とのことですから、まさに早熟の才人だったのです。その後グループの中心メンバーとなり、カディウの次男と結婚しますが、彼女もまた当時の美術界から強い逆風を受けていました。
そうした背景があったからかもしれませんが、岩田が新鮮に映ったようです。彼女によれば、「
岩田は礼儀正しく、いつも笑みを絶やさず、常に謙虚でした。私は謙虚なアーティストが好きです。この業界で謙虚さというのはあまりないものですから。」「
私は彼に会うのをいつも楽しみにしていました。グループの誰もが彼の作品を好きになる素晴らしい画家で、一人の人間としても魅力的でした。」
カディウ率いるグループ内において、そして「コンパレゾン展」でのカディウ統括セクションにおいては自由闊達な作品制作と発表ができる環境にあったものの、「
メディアには(ほぼ)完全に拒否されました。彼らは私たちのことについては触れないことにしたようです。一度展覧会のことで電話したときなど、『抽象ですか?具象ですか?』と聞かれて『具象です』」と答えた瞬間に切られました。」
「
現在では、当時に比べて国際的にはより好意的に受け入れられるようになりました。しかし、フィガロでもル・モンドでもリベラシオンでも何でも新聞にはアートに関する批評や評価記事そのものがもう何も載っていません。」「
(主要な展覧会場である)グラン・パレでも、岩田と共に出品した時代は1か月の期間設定ができましたが、今では4日以上は与えてくれません。」
「コンパレゾン展」もかつては多種多様な作家の集まる革新的なサロンだったものの、次第に似たものばかりとなり、オリジナリティも薄れ、時間とともに質が落ちて、人を集めるのが年々難しくなり、行き詰まったと彼女はいう。「
本当に残念です。フランスに固有のものだったので、こういった形態の、意味のあるサロンはここにしかなかったのです。」彼女は、はじめアメリカに、今はシンガポールなどに発表の場を移しています。
(文中ル・プランスの発言引用は、オリヴィエ・ドゥグリーズ氏から横浜本牧絵画館にあてたインタビュー資料及び報告(2017年10月30日付)に基づくものです。)