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岩田榮吉の人物と経歴

 人物点描
  ラジオで聞く音楽


1957年12月、初めてフェルメール《牛乳を注ぐ女》と対面した翌日、朝食をとったカフェで流れていたヴィヴァルディの楽曲を耳にし、「しみじみ幸福と思う…」と日記に書いた岩田ですが(作品点描~音楽世界との関わり(その1) 参照)、この頃のパリやアムステルダムでは、すでに音楽専門のラジオ放送局がいくつも開局し、町中に音楽が流れていたのです。岩田はパリのアトリエでもよくラジオの音楽放送を聞いていました。

1960年代から1970年代、岩田がよく聞いていたのは、フランスの公共放送で音楽専門の「フランスミュジック」によるAMモノラル放送だったと思われます。また、アトリエの受信機は、当時もっとも普及していた真空管式「5球スーパーラジオ」。電気工学を学んだこともある岩田のことなので、その特性も理解したうえで使っていたはずです。


フランス アルバ社製ラジオ「Super AS55」
フランス アルバ社製ラジオ「Super AS55」
(1955年発売の真空管式5球スーパーラジオ)


この時期、ステレオレコード、AMステレオ放送(2波方式)、FM放送、トランジスタラジオなどの実用化が既に始まっていますが、真空管式ラジオで聞くAMモノラル放送も、受信環境さえ良好であれば、なかなかの音質です。自宅、街中のカフェ、仕事場などどこでも様々な音楽を楽しめるようになったことは、音楽や音楽家のあり方を大きく変えました。ちょうど絵画や画家のあり方を「写真」が大きく変えたように。

こうなると絵画と音楽の関係も変わらないはずがありません。しかし、「音楽のある世界」を描いたマチスの《ダンス》が1910年作、「音楽的な絵」を目指したというカンディンスキーの《コンポジション》シリーズにしても1940年代以前の作、つまり「放送技術による音楽の大衆化」以前のものです。絵画・音楽からの啓示がその文学に不可欠なものとしたプルーストにしても、彼にとっての音楽はサロンなどで聞く生演奏に限られていたのです。

時代の好みを反映してアトリエに流れるラジオからの音楽が、直接に個別の楽曲との関係を窺わせる作品だけに限らず、岩田の絵画制作になにがしかのヒントをもたらしたことは想像に難くありません。(作品点描~音楽世界との関わり(その2) 参照)


ジュール・シェレ作「テアトロフォン」ポスター
ジュール・シェレ作「テアトロフォン」ポスター

参考:テアトロフォン
実はプルーストの時代にも、オペラ公演の「ライブ配信」があったようです。フランスの発明家クレマン・アデール(1841-1925)がグラハム・ベルの電話機を応用して製作した「テアトロフォン」は、会場設置の2本のマイク~電話回線~ホテルのロビー・カフェなどに設置したコイン式受信機~ヘッドフォンでリアルタイムのステレオ音声を聞くことができるものでした。プルーストは1911年に個人加入しましたが、友人宛に、全然よく聞こえない、ほとんど使っていないと書簡を送っています。


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