人物点描
伊藤廉先生
伊藤廉(1898年~1983年)は絵画制作だけでなく文筆にも長じ、『繪の話』などの啓蒙書を多数著したほか、美術教育者としても手腕を発揮しました。芸大時代の岩田がもっとも多くの時間、懇切な指導を受けたのは、その伊藤先生でした。
岩田が芸大に入学したのは1951年、そのころの芸大は安井曾太郎・梅原龍三郎両教授が辞職(1952年)し、おりしも伊藤廉助教授が病気療養休職中であったこともあって大きな変動の時期でした。しかし岩田が学部4年生となった1954年には、教授として復帰した伊藤を加え、林武・小磯良平・伊藤廉教授、久保守・寺田春弌助教授、山口薫・牛島憲之講師などの布陣が整い、専攻科(現在の大学院に相当)の設置、「教室」(現在の「研究室」に相当)制の復活など体制の整備が進みました。
岩田は、1~2年生で小磯、3~4年生で山口・伊藤の各先生についていますが、「伊藤教室」の第1回生として専攻科に進みます。『東京藝術大学百年史』の記述によれば、
「…この時期の指導陣はみな具象派であったが…やや理知的な伊藤、非常にテクニックのしっかりした写生的な小磯、心象的な具象の山口…」、
「…スマートな新制作を目指すなら小磯教室、学生の面倒見のよい伊藤教室」といった評判を得ていたようです。その伊藤教室での岩田の勉強ぶり詳細は、雑誌『アトリエ』1957年6月号の「東京芸術大学伊藤教室・政策研究記録」に収録されています(
作品点描~《招待》 参照)。
そして「面倒見のよい」伊藤先生との関係は卒業後も続きます。1971年5月、岩田はパリに伊藤を迎えます。前年の1970年、岩田は初の個展を日本橋三越で開きますが、図録に推薦の寄稿を受けたばかりでした。伊藤は、東京芸大を定年退官した後、郷里の愛知県立芸術大学創設(1966年)に携わっており、この時の滞欧目的は同大学における教材作品購入と美術学校視察でした。伊藤はパリ滞在時のエピソードを次のように書いています。
「約2ヵ月の約束で岩田栄吉君が借りておいてくれたカディウ氏の家にいたことがあります。岩田栄吉君とカディウ氏とは、パントル・ド・ラ・レアリテの仲間です。」
「アトリエも居間も、カディウ氏の好みのものが一杯で、…階下の部屋の壁に戸口の絵が掛けてあって、その扉に、仕事着などが掛けてあるところが描いてあります。それがトロンプ・ルイユで、夜にその絵の上右方からの電灯の光の中で見ると、その衣類の黒い陰が、実際に仕事着が掛けてあったら、そういう陰が生まれると思われるようにかいてあるのです。」
―伊藤廉『油絵のみかた』 美術出版社 1983年8月刊
(
人物点描~<パントル・ド・ラ・レアリテ>アンリ・カディウとの出会い 参照)
伊藤廉『繪の話 その一~その三』 美術出版社 1950年刊
終戦直後間もない時期から毎日新聞社の小学生新聞に連載された記事をまとめたものがベースになっている。広い視野、豊富なたとえ、平明な文章で、年少者から一般成人まで広く読み継がれ、装幀、仮名遣いなどを改めて版を重ねた。