岩田榮吉の作品
作品点描
音楽世界との関わり(その3 《人形と引き出し(トロンプルイユ)》)
《人形と引き出し(トロンプルイユ)》(1971年・画集No.42)は、岩田の代表作のひとつとなる《箪笥(トロンプルイユ)》(1977年・画集No.79、
作品点描~トロンプルイユ(その2) 参照)に通じる作品です。トロンプルイユであることをはじめ、引き出し、天秤ばかり、楽譜などのモチーフが共通しており、幼少期に形成された意識下の記憶が分別を備え今日を生きる自分を規定している…その態様がテーマであることも共通していますが、《人形と引き出し(トロンプルイユ)》でとくに注目したいのは、モチーフの楽譜です。
写実的な細密描写を身上とする岩田のこと、作品中の楽譜も克明に描き込んでいて、その楽曲を特定できます。本作に描かれているのは、「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」収録の「メヌエット ヘ長調 BWV.Anh.113」。様々にアレンジされて広く知られている「メヌエット ト長調 BWV.Anh.114」のひとつ前のナンバーをもつ楽曲です。それほど広く知られた曲ではないようですが、ここまでわかると少々気になります。
アンナ・マグダレーナ・バッハ(1701~1760)は、かのヨハン・セバスティアン・バッハの二番目の夫人で、もともとソプラノ歌手として音楽の素養のあった女性ですが、13人の子をなし、後に作曲家として名声を得るヨハン・クリスティアン・バッハをはじめ多くの音楽家を育てたほか、夫から贈られたこの音楽帳に、夫以外の作も含め自身の気に入った曲を書き加えて遺したとされています。
岩田は描いた楽譜の何に関心があったのでしょうか。おそらくは、楽曲そのものではないでしょう。音楽専門のラジオ放送でも、繰返し流れるほど人気があったとは思われません。音楽帳そのものでもなさそうです。岩田はそれほどの音楽マニアではなかったからです。岩田が心惹かれたのは、バッハ家の雰囲気ないしバッハ夫妻の仲を感じさせる音楽帳の成立ち、あるいは当時の理想的女性としてのアンナその人のエピソードだったのではないでしょうか。自身の育った家庭あるいはその母に思いを致しつつ。
《人形と引き出し(トロンプルイユ)》 1971年
参考:「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」から「メヌエット ヘ長調 BWV.Anh.113」および「メヌエット ト長調 BWV.Anh.114」の冒頭旋律