岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
日本館時代~転機(その2)
岩田が日本館に滞在していた1950年代から1960年代ころ、フランスの美術界はすでにピカソ、ブラック、レジェやモンドリアンなどの「幾何学的抽象」「冷たい抽象」を脱して、「熱い抽象」「アンフォルメル」が主張され、アメリカ流「アクション・ペインティング」と呼応して大きな盛り上がりを見せていました。パリの日本人画家たちにもその影響は大きく及んでいたのです。
作家・加賀乙彦の自伝的作品『頭医者留学記』に、筆者の隣室の画家(岩田がモデルです)を別の日本人画家が訪ねてきて言いたい放題の場面が描かれています。彼曰く、
『
(あんたの絵みたいな)古いものは世に認められねえよ。おりャね、パリに来て全部の画廊を見てまわったんだが、具象の時代はもう終わったね。アンフォルメルの時代さ』
『
そんな(古い)考えじゃ画壇にのして出れない』
『
あんた、プロになるんだろ。プロは一等じゃなくちゃ駄目さ』…
『
おりャ、もう画商がついたぜ。あんたも頑張って、アンフォルメルに転向しろよ』
この言いたい放題画家(作中「ダルマ」)の制作光景は…
『
背の高い踏み台に板をわたし、そこにフンドシ一つのダルマが立っていた。』…
『
制作が始まった。床に置いた大画布へ向けて、板上に立ったダルマが絵具の雨を降らせるのだ。鉢巻から絵筆を居合のように抜くや「えやー!おお」と奇声を発して絵具をばらまく。一本二本三本と順にばらまき、次には三本一緒に振りまわし、ついには絵具を入れたバケツをさかさまにしてぶちまける。すさまじい迫力だ。
「ホホホホオ」とインディアンさながらに叫んだダルマは、板から飛び降り、画布の上に四つん這いになり、手と足で絵具をこねくった。』…
『
二十分ほど、制作したあと、ダルマは「おわり!」と叫んだ。』
もちろん誇張潤色はあるのでしょうが、当時の雰囲気がうかがわれます。こうした時代にあって、岩田は、
オランダへの旅行、イタリアへの旅行、長谷川潔との出会いなどを重ね、画風を大きく変えて行きます。同じ留学生仲間であった渡邊守章(演出家・仏文学研究者、1933~)は、この間の岩田について次のように書いています。「
50年代末から60年代初めにかけての実存的危機の乗り超えと、『静物画』への集中とは重なっているように思われる。自分自身の実人生のドラマよりは<物たち>の方が、いやより正確にいえば、彼の筆によって画布の上のマチエールに変じることで甦る<物たち>の方が、遥かに豊かで魅惑的な言葉を語り得ることを確認したのだろう。」
(『聖変化―あるいは岩田栄吉の世界』みづゑ1982年夏号)
《グランマルニエの静物》 1960年
「グランマルニエ」は、フランスのオレンジリキュールの銘柄。岩田の静物画としては、芸大までの作品と、1960年代後半以降の作品との間にある過渡期的な作品です。