人物点描
パレットクラブ
岩田は、東京藝大入学前、慶應義塾大学工学部電気工学科を卒業しています。岩田は後年その予科時代(1947~48年ころ)を、大して興味のない実験に時間を取られ好きな絵が自由に描けなかった…と回顧(
人物点描~画家の生き方(その2) 参照)していますが、後に風景画を試みる端緒が実はこの時期にあったようです。実年齢では岩田より1歳下ながら藝大で2年先輩にあたる中根寛(1925‐2018)は、以下のように書いています。
「
…昭和26年、当時油畫科3年生であった私は芸術祭学生作品展の1年生の部に陳列された作品の中に、他を圧して堂々とした風景作品の数点を目にした。級友から作品の主岩田君について、慶應の絵画同好会パレットクラブに属して、高畠達四郎の指導を受けていたといった説明を聞いた。20号ほどの落着いた褐色を主調とする風景作品であった。その作中の伸びやかに枝を張る木立を今も想い出す。…」
(中根寛『岩田榮吉君追想』 岩田榮吉画集所収)
慶應義塾大学の綜合美術団体パレットクラブは1899(明治32)年に設立され、戦後も1946年には早くも日本橋の画廊でクラブ展を開くなど活発に活動を展開していました。また、内外の風景を多く描いた高畠達四郎(1895‐1976)は、かつて慶應義塾大学理財科(のちの経済学部)に在籍した縁もあって、部員の指導を行っていた模様です。若き日の岩田が屋外でイーゼルを立て、友人とともに写生をしている写真がありますが、まさにこの時代のものと思われます。
ところで、中根の印象に残った「20号ほどの落着いた褐色を主調とする風景作品」とはどの作品でしょうか。画集には収録されていないと中根自身が書いています。画像などが残って存在が確認できる作品の中にも、相当すると認められるものは見当たりません。あるいは、画集掲載の《木立》(1953)のような作品だったのでしょうか。同様のモチーフの心象風景作品は何点かあります。「伸びやかに枝を張る」というには少々遠いようですが。
屋外での写生(慶応義塾大学予科時代)1947年頃
《木立》 1953年