長谷川潔(1891~1980)は銅版画家。若年で渡仏した後、終生フランスで活動し、古い版画技法である「マニエール・ノワール」を復活させ独自の様式として確立させたことで知られています。
岩田は、渡仏後間もない1959年、68歳の長谷川と知り合います。在仏の画家高田力蔵氏(1900~1992、古画の模写で著名)の紹介でした。同氏の子息である高田壮一郎氏(日本のパティシエの草分けの一人で、菓子「マドレーヌ」「ガレット・デ・ロワ」を日本に紹介した。人物点描~「マドレーヌ」高田壮一郎との縁 参照)と東京でともにフランス語を学んだ縁によるものでした。
直々に銅版画の手ほどきを受け、いずれは後継者にと期待されて、その成果の一端はドライポイント作品《ブルターニュの農家》に見ることができますが、結局岩田は銅版画の道には進みませんでした。しかしながら、長谷川のモチーフ、オブジェの扱いに大きな影響を受けたことはそれぞれの作品の多くから容易に見て取ることができます。
長谷川に私淑した岩田は、足しげく長谷川の下に通いました。木版画家の北岡文雄(1918~2007)は次のように書いているということです。
『晩年の長谷川先生の生活は寂しかった。その版画は日本においてもやっと正しい評価を受けるようになって、経済的な不安はなかったものの、先生自身の体力の衰えと、ミシュリーヌ夫人の精神的不安定と全盲になってしまったベルナール(=子息 本サイト引用者注)の症状が先生を苦しめた。先生は日本からの留学生や訪れた画家や版画家たちの世話をよくされたが、先生の不幸はそれらの人々がいずれは日本に帰ってしまうことだ。私も駒井哲郎も同様である。さびしかった晩年の先生の世話をしていたのは巴里在住の画家岩田榮吉氏や日本料理店巴里たからの主人芦部巧氏などほんの僅かな人たちである。』
― 猿渡紀代子『長谷川潔の世界(下)』有隣堂 1998年