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岩田榮吉の人物と経歴

 人物点描
  ~第1回個展(その3 背景)



岩田の心配をよそに、1970年秋に東京日本橋三越本店6階画廊で開かれた第1回の個展は成功裏に終了しました。岩田がパリで制作し始めたころと比べて、パリにおいても、また日本においても環境は大きく変化していたのです。

岩田が渡仏したのは1957年。この頃パリでも、また日本でも、写実的な細密描写絵画はまったく「流行(はや)らない」ものでした。その様相については、当サイトの「日本館時代~転機(その2)」、「加賀乙彦『頭医者留学記』に登場する画家『小岩』」でも触れています。岩田はそうした風潮になびくことはありませんでしたが、その圧力は大いに感じていたに違いなく、それが個展開催に慎重な態度を示した大きな理由の一つであったと思われます。

当時隆盛を極めた「抽象」、「アンフォルメル」等ですが、「流行(はや)らない」と言われた側にも、すでに1960年代の初めから拮抗の動きが現れます。岩田が属した、アンリ・カディウ率いる「パントル・ド・ラ・レアリテ」の活動、日本における「国際形象展」の活動などはその一環で、世界的好景気に後押しされ購買力を得た一般愛好家の支持と、アンリ・カディウが指摘する「画家たちが本源的に持つ写実的描写のよろこび」を力として、徐々に広まりを見せます。

「パントル・ド・ラ・レアリテ」については、当サイトの「パントル・ド・ラ・レアリテ アンリ・カディウとの出会い」、「パントル・ド・ラ・レアリテと山口健智」で触れていますが、岩田の制作の大きな支えでした。そして、「国際形象展」。日本人画家だけでなくフランス人など海外画家も招待して新作の具象絵画発表の場としたこの展覧会は、1962年の第1回から1986年の第25回まで続く有力な存在に成長しますが、その旗振り役の一人が岩田の旧師・林武でした。

岩田の第1回個展成功の背景にこうした状況があったことは見逃せません。その意味で岩田には実力だけでなく「ツキ」もあったと言えるでしょう。ちなみに、岩田は、第9回(1970年)、第10回(1971年)、第17回(1978年)、第18回(1979年)、第20回(1981年)、及び第25回(1986年=最終回。岩田は物故作家として出品)…の国際形象展に招待出品しています。


岩田の出品した国際形象展の図録
岩田の出品した国際形象展の図録


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